浄迎寺の沿革
浄迎寺に関する古記録は現存しておらず、開基や創建の詳細は明らかではありません。一説には、かつて真言宗系の寺院であったとも伝えられています。
浄迎寺と深いつながりをもつ中村家(屋号:生駒屋)の屋敷奥には大日堂があり、その縁起札には、享保6年(1721年)、「称号山浄迎院」が大日堂の再建に関与した旨が記されています。
中村綾夫氏所蔵の文書には、すでに1660年の段階で「一向浄迎院道場」との記述があり、江戸初期には浄土真宗の寺院として機能していたことが窺えます。一向宗(浄土真宗)を名乗る浄迎院が、真言宗の大日堂の再建を願い出ている事実からも、かつて真言宗と深い関係を有していたことは確かであると考えられます。


1208年、宇野氏が建立された藤谷山瀧上寺
いつの時代に真言宗から浄土真宗に改宗したのか、明確な記録は残っておらず、推測の域を出ませんが、宇智郡を治めていた宇野氏との関係が影響していると考えられます。
鎌倉時代から南北朝時代にかけて、当地・佐名伝(当時は「佐那手」)は宇智郡に属し、宇野氏の管轄下にありました。宇野氏は、宇智郡宇野村(現在の五條市宇野)に居城を構え、保元の乱(1156年)では宇野七郎親治が平清盛に抗し、治承の戦い(1180年)では宇野有治が源三位頼政に従いました。しかし、戦いに利なく、無常を悟って出家し、法然聖人に師事して法光房の法名を得、さらに親鸞聖人の教化を受け「聖空」の名を賜ったと伝えられています。
承元元年(1207年)の法然聖人・親鸞聖人の流罪の際、聖空は本国へ帰還し、念仏の弘通によって師恩に報いようと、下市の地・善城村堂の谷に一宇(瀧上寺)を建立しました。これは承元2年(1208年)7月のことと伝えられています。
室町時代には、宇野氏の瀧上寺より分かれて新住の宮前寺が建立されており、浄迎寺の再興に際しても、この宮前寺を通じて願い出がなされていたことが中村綾夫氏所蔵の文書に見られます。
また、ご門徒のお内仏には、蓮如上人時代の「南無阿弥陀仏」の尊号が伝えられており、室町期にはすでに真言宗から浄土真宗への転換がなされていたと推察されます。
これらのことから、宇野氏と佐名伝は鎌倉時代から関りがあり、荘園制度の終焉とともに、吉野郡内の浄土真宗の伝播の中心であった瀧上寺を通じて、当地・佐名伝にも浄土真宗の教えが伝わったと思われます。
古記録には、「道場」や「惣道場」とあるので、室町から戦国期にかけてのいわゆる「惣村」という農村で生まれた、寄り合いをもって自主的な運営を行っていた自治的な集まりとも深い関係があります。「惣村」という自治的な村人の集まりに、浄土真宗の教えが伝わり、村人が共同で管理・運営したのが「道場」「惣道場」です。
浄迎寺の寺号を公称する前は、新住の宮前寺を本寺として、地域における共同の信仰の場である「浄迎院惣道場」が、村人の自主的な運営によってはじまったと思われます。(平成の頃までは、お寺のことを「どうじょ」と呼ぶご門徒がおられました)


蓮如上人筆の六字名号

中村綾夫氏所蔵の文書
このように、村人の自主的な管理・運営のもと共同の信仰の惣道場としてはじまりましたが、1660年頃には「一向宗浄迎院道場」の存続が、何らかの事情によって危ぶまれる事態にあったことが、中村綾夫氏所蔵の文書より読み取れます。管理・運営する住職が不在であったことも、影響していると思われます。
江戸に入り世情が落ち着いた当時は、惣道場が寺院化していく事例が多くありましたが、江戸幕府は新寺建立禁止令を寛永8(1631)年に出されていて、新たな寺院の増加を抑制しようとしていた時期にあたります。そのような時代背景にありながら、貞享3(1686)年に、二間四面の本堂再建を、新住の宮前寺を通じて「恐れ乍ら言上」し、願い出されています。
その後、元禄5年(1692年)、「浄迎寺」の寺号を公称することが許されたことは、村人にとっては念願がかなったことでありましょう。
以降、加賀国や能登国から「住僧」「看僧」と呼ばれる僧が一時的に滞在していたことは記録に残っていますが、長らく定住の住職はいなかったようです。
「看僧」は正式には「看坊」と呼ばれ、門徒から委任されて寺院の管理を行う僧侶のことで、「住僧」は「看坊」と同義か、あるいは、看坊とは別に一時期、お寺に住まわれていた僧侶を指すのかもしれません。
いずれにせよ、「惣道場」から浄迎寺の寺号公称以降も、看坊の道場として、定住の住職はなく、門徒の委任によって、住僧・看僧が短期間で入れかわり維持・管理が行われていました。定住の住職を迎えることが、門徒衆の悲願だったことでしょう。
やがて、弘化4年(1847年)9月、筑後国嘉麻郡(現在の福岡県筑豊地方)より花岡大道師が、藤谷山瀧上寺を経て浄迎寺へ迎えられ、初めて定住の住職として着任しました。入寺にあたって、福岡まで迎えにあがり、輿に乗って迎え入れられたと伝えられています。
この出来事は、浄迎寺が地域に根ざした寺院として本格的に機能し始める転機となり、現在へと続く礎が築かれました。以来、大道師、大靜師、大雄師、大学師、大樹師と歴代住職が法灯を継承し、ご門徒の皆様のご協力のもと、念仏の教えが脈々と受け継がれてまいりました。本堂は、享保8年(1723年)に三間四面の堂宇として建立され、明治34年(1901年)には五間四面に再建されて以来、念仏・聞法の道場として今日まで護持されています。現在の本堂は、親鸞聖人七五〇回大遠忌慶讃記念事業の一環として、門信徒一同の懇篤な志と奉仕を得て、平成の大修復が行われ、平成19年に落慶を迎えました。

明治43年に再建された当時の鬼瓦