真實庵釋大道
―浄迎寺の未来を切り拓いた法灯の継承者-
1813(文化元)年~1865年(慶応元)年8月24日
浄迎寺25世住職
筑前国嘉麻郡口ノ原村の生まれ。法光寺代17世超倫の息男。
弘化4(1847)年に浄迎寺に入ったと思われます。おそらく下市町善城の瀧上寺で宗学を学びに来ていたのが縁となったと思われます。
そして安政2(1855)年10月、大道師は九州に戻り11月24日には一旦豊後の自坊に帰坊されます。そのとき、鶴屋藤治郎と鶴屋藤助(大道師の妻マツエの兄妹)らが豊後の国まで迎えに行かれたようです。浄迎寺入寺にあたって豚・石炭等などを携帯し、「大和浄迎寺」と大書した長持ちを担いで物々しい道中をなしたと伝えられております。
1865年(慶応元)年8月24日往生。行年52歳
妻はマツエ。
花岡大静の父。
これまで定住の住職が存在しなかった浄迎寺の礎を築き、自庵化された。
長女の芳枝は式上郡三輪村円融寺に嫁ぐ。
次男の大信は河内国茨田郡池田村に住した。
安養院釋大靜
—浄迎寺を学問と文化の礎へ―
1848(嘉永5)年~1926(大正15)年
浄迎寺26世住職
1848(嘉永)5年8月10日、父・大道、母・マツエのもとに当山にて生まれる。
文久2年~慶応3年まで秋野村法泉寺稲葉一道師について漢籍を学ぶ。
慶応元年8月、大道師示寂。その年、10月11日に得度。同日、浄迎寺第12代住職(26世)※となる。
慶応3年3月より、美濃国大野郡北方村長慶寺遠照勧学(釋了祐法師)につきて宗学を学ぶ(明治元年まで)。大靜師は大道師示寂ののち、笈を負うて単身長慶寺に赴き托鉢をなしつつ、了祐師に師事されました。「勧学了祐和上ハ当山住職花岡大靜ノ師也」とあり、宗学を研鑽していたと思われます。
明治10年、宇陀郡下田口村・佐々木英鎧次女ミスオト結婚。
大靜師が宗学を研鑽していた記録や、漢詩などが多数残っています。
また、明治34年に本堂を再建されるなど、現在の浄迎寺の太鼓楼・山門・庫裏など、境内地の整備にも尽力されました。
明治12年、次男・大雄生まれる(長男は早逝)。
三男、大雲師は大淀町新野の正光寺に入寺
四男、覚靜師は吉野町入野の勝光寺に入寺
五男、恵靜師は黒滝村脇川の聞光寺に入婿
大正15年1月16日午前5時30分往生 行年75歳
※大靜師の残された記録に、開基・創建不詳とある。ただし、中興乗観より当代まで12代とあり、それぞれの法名が記載されている。しかし、乗観師の詳しい記録は残っておらず、乗観師以降の法名も、住僧・観僧とは一致しない。また乗観師は中興とあるが、それ以前のことはまったく不明である。大雄師の頌徳碑には27世とあり、当山ではこれを用いるので、大靜師は26世となる。


彰徳院大雄
― 信仰と民風に尽くした生涯 ―
花岡大静師の次男として生まれる。
また、花岡大学の父であり、文学に大きな影響を与えました。それだけではなく、産業組合を設立し、地域の発展、人材の育成にも力を注ぎ、荒廃しかかっていた佐名伝を立ち直らせた方でもありました。
その遺徳を顕彰し、村内挙げて頌徳碑が公民館前に建立されました。現在は浄迎寺の山門前に移転されています。
花岡大雄師の事績
戦後の農村が経済的に厳しい状況にあった中、花岡大雄師は、明治三十七・八年の日露戦争の際に下士官として従軍し、その後数年間陸軍の職務に従事 しました。退役後は故郷に戻り、農業の発展に力を注ぎました。宗教的な信念に基づき、農村の振興に貢献し、地域の生活を支えるために努力を重ねたのです。
大雄師が書かれた「地方改善産業振興状況言上」の記述を元に、当時の佐名伝をとりまく困窮した状況をどう克服したのかを以下に紹介します。

御霊神社鳥居横に建つ
日露戦役記念の碑

砲兵曹長勲七等
花岡大雄とある
1、農村の危機と困窮
農業不況と経済的困難
花岡大雄師が日露戦争の軍役から帰郷した当時、全国的に農業不況によって、農村の人々は深刻な経済的困難に直面していました。当地佐名伝も例外ではなく、先祖代々受け継いできた田畑を債務整理のため売却せざるをえず、住居を人手に渡し納屋に引き篭もる人や、夜間に別の地域へ逃れる人が現れました。
借金と土地の売却
村内の耕地の半分以上は他町村の地主の手にわたり、借金が膨らみ、新しい家を建てようとしても資金が足りず、負債の返済にも苦しんでいました。藁葺小屋さえ抵当として抑えられ、負債は雪だるま式に増えていくような有様でした。病気や災害などの予期せぬ出来事が続き、一銭の貯蓄をする余裕もなく、不安定な生活を強いられていました。肥料の購入に現金が必要でしたが、現金がなく、高い利子を払って借りるしかない状況に陥っていました。収穫期に収入を得て生活必需品を買うものの、明日の生活を支えるに足りるものではなく、困窮は極まりを増していました。
都会への憧れと人口減少
さらに、冬の寒さや風雨にさらされながらの重労働が続き、厳しい環境の中で生き抜くために必死で働かなければなりませんでした。こうした困難な状況が、農業への関心を薄れさせ、都会への憧れを加速させ、村の人口は減る一方。そして唯物尊重の社会的風潮が僻寒の農村にまで広がり、利己主我の思想風潮が勢いをましていました。
宗教信仰の衰退
これまでは常に聞法に浴し宗教信仰を中軸とした土徳でありましたが、社会の風潮におされ、大切に受け継がれてきた敦厚の美風も、信仰 心も次第に冷ややかとなり、我さえよければという、他を顧みない有様に堕していました。
2、仏陀の余に下したる使命
為人会の設立
このような村内の惨憺たる有様を目の当たりにした大雄師は、「仏陀の余に下し玉へる使命なり」と、村民の復興・発展を目指して立ち上がります。
明治44年、まずは村内の青年有志を集め、「為人会」を組織しました。そこで、夜学、静座会、茶話会、共同耕作、教練など精神教養と身心の鍛錬を行いました。「為人会」は着々と実績をあげ、郡内の青年団の中でも異彩を放つようになります。
家庭・地域への広がり
その後、「為人会」の青年とともに村内各戸を訪問し、戸主・主婦を説得し、大正4年に「戸主会」と「主婦会」を組織します。そして、毎月一回、お寺にて例会を開催し、精神的な指導だけでなく、共同貯金を開始し、毎月定額の貯金をし、共同財政の仕組みが整えられました。
このような取り組みは、当初、順調にはいかず、入会を拒む人も多かったようです。それでも諦めることなく、「為人会」のメンバーとともに、各戸を回り、共同耕作・共同財政の必要性を説いて回りました。「為人会」「戸主会」「主婦会」の活動は町役場や奈良県まで聞こえるようになり、毎月の例会に県や町の職員が臨席することもありました。
これにより、村民が毎月一定額を貯蓄する習慣を促し、不安定な農業経済の中でも資金を確保できるように取り組み、貯蓄が難しい家庭には会員が直接訪問し、状況を確認しながら支援策を考えるなど、コミュニティ全体で助け合う仕組みが形成されていきました。これは単なる経済対策ではなく、人々のつながりを強化し、農村社会を支える重要な取り組みだったと考えられます。
また、奈良県の事務官など地方行政関係者とも協力し、大雄師は地域改善計画を説き、その方向性を定めていきました。官僚や役人が地域の例会に参加し、直接指導を行ったことで、農村振興の取り組みは公的な支援を受けながら進められたのです。こうした行政との連携は、地域主導の改革活動をより効果的なものにしていったと考えられます。
3、組合設立と農業振興
産業組合の設立
大雄師は農村経済の安定を目指し、村内の貯蓄が増えた(三千五百余円)ことで、大正9年7月に産業組合が設立されました。しかし、組合経営には課題も多くありました。簿記の学習や運営に関する研鑽が進められる一方で、組合員の理解不足が業績の伸び悩みにつながり、経営の安定には苦戦したようです。
農業技術の向上
それでも農業振興は進み、米・麦や野菜、養蚕業、果樹栽培の推進により土地の活用方法が広がりました。特産品として「勝利梨」(かちどきなし)の栽培も行われ、地域産業の重要な柱となりました。さらに、吉野郡の農会や農事試験場との連携により、肥料や鳥虫駆除法、栽培技術の研究・実験、販路の拡充など、あらゆる対策が講じられました。
そして、農村経済の発展を支えるため、金融制度の整備が進められ、地域の事業の基盤が強化されました。その結果、組合の活動は広がり、地域の産業が活性化するとともに、海外への輸出が行われるほどの発展を遂げます。昭和3年以降、さらに業績が伸び、村全体の経済が活性化しました。
地域社会の安定と発展
産業の振興と組合の発展により、村外の地主の手に委ねられていた土地を取り戻すことができ、村民の資産も増え、経済的な余裕が生まれ、農業に関わる青年層の活動も広がりを見せることになります。
また、組合員の貯蓄が拡大し、毎年その額は増加し(二〇〇余名の組合員、貯金総額六十万円、一戸平均三千円の余財)、組合全体の経済 的な安定が強化され、農業振興だけでなく地域全体の発展に貢献しました。こうした動きは、地域社会の結束を深める重要な要因となりました。
組合の指導的立場として
大雄師は村の産業組合の運営の傍ら、下市町の産業組合の創立にも招聘され主事職として事務整理の指導の任にあたりました。更に奈良県の要請を受けて県の産業組合主事を拝命し、吉野郡内二十五の組合の指導にあたりました。そして農林省の嘱託により監査員として、奈良県下の監査指導に従事することとなりました。
こうした大雄師の取り組みは、地域社会の発展に大きな影響を与え、一基の頌徳碑が建立され、次世代へと受け継がれていったのです。

花岡大雄師の遺徳を顕彰して、奈良県知事(当時)の百済文輔師の揮毫により頌徳碑が建立されました。
昭和40年、大雄師23回忌の法要の折、現在の浄迎寺山門前に遷座され、銘文が新たに刻まれました。
福田定一(司馬遼太郎)の「請願寺の狸ばやし」にも大雄師のことが書かれている。