釋大雄法師頌徳碑文
夫彰徳院釋大雄法師姓花岡氏父大静母美須野女及長而負笈東都修学東洋大学業半服徴兵従軍日露役果大任歸故山也賜勲七等次継承浄迎寺廿七世矣
尓来四拾有餘年為寺門谿經営創立戸主会主婦会為人会等終始一貫盡瘁民風改善與信仰生活樹立孜孜不敢怠併而設立信用組合以企図専農者資金運用與生活安定粉骨砕身克服幾多苦難殆不知年命迫也宜哉以其功績顕著為本願寺並県知事諸官衛等所褒彰又累任於宗門要職郷民亦得師許諾建立頌徳碑以敬仰其盛勲不能措也雖然豈謂乎昭和拾八年拾貮月拾参日以享年六拾五遂溘然還歸浄土矣可哀哉
顧今也師偉績深滲透民心淳風美俗弥漫全郷平和全活之大道確立焉然則邑人挙謝其薫陶開発之恩乃今茲當遷座師頌徳碑於佛地浄潔之寺域刻文此碑以鴻其慶矣後生誰有不亦蒙其澤者乎
昭和四拾年貮月撰


釋大雄法師頌徳碑文
(書き下し文)
夫れ、彰徳院釋大雄法師は姓は花岡氏、父は大静、母は美須野女なり。
長じて笈(おい)を負いて東都に修学し、東洋大学に業半ばして徴兵に服し、日露の軍役に従い、果たして大任を成し、故山に帰る。
すなわち勲七等を賜わり、次いで浄迎寺二十七世を継承せり。
ここに来たりて、四十有余年、寺門の経営をなし、戸主会・主婦会・為人会などを創立し、終始一貫して民風改善と信仰生活の樹立に尽瘁(じんすい)し、孜孜として敢えて怠らず。
あわせて信用組合を設立し、専農者の資金運用と生活安定を企図し、粉骨砕身、幾多の苦難を克服し、殆ど年命の迫るを知らざりき。
宜(むべ)なるかな、その功績の顕著なるを以て、本願寺並びに県知事、諸官衛等より褒彰せられ、また累(かさね)て宗門の要職に任ぜらる。
郷民もまた師の許諾を得て頌徳碑を建立し、その盛勲を敬仰し措(お)く能わざるなり。
然(しか)りといえども、豈(あに)謂(い)わんや、昭和十八年十二月十三日、享年六十五にして遂に溘然(こうぜん)として浄土に還帰せしを、哀しむべき哉。
顧(おも)えば今、師の偉績は深く民心に滲透し、淳風美俗は全郷に弥漫し、平和全活の大道、確立せり。
然れば則ち邑人(ゆうじん)、挙げてその薫陶開発の恩に謝し、乃ち今茲(いまここ)に当たりて師の頌徳碑を遷座し、仏地浄潔の寺域に刻文して此の碑に鴻(こう)す。
後生、誰かまたその澤(たく)の蒙(こうむ)らざる者あらんや。
昭和四十年二月 撰
大雄法師を偲ぶ
門徒総代 中村勇作
淨迎寺第二十七世の大雄法師は、昭和十八年十二月十三日、御年六十五才をもつて、その生涯をおえられるまで、御法を中心として、自由自在に大衆の中にとび込んで正しくみ法を伝へ、ともども信仰のよろこびをわかち合い、しんじつに門徒をみちびかれ、又広く社会の教化に骨身をおしまずおつくし下さったのであります。
私達門徒の御えんさんとして、本とうに得がたい、りっぱなお方でありました。
ここに御在世中の一端を偲んで、感謝のまことをささげたいと存じます。
おもかげ。壮年当時は、国民の義務であった兵役には野砲兵として服務されました位でその名の如く大きく雄々しくして均整のとれた好男子の方でありました。ひきしまった眼光も一度談ずれば可々大笑、おかしがたきにも人をして御えんさん御えんさんと慕われるなごやかなお顔でありました。
生涯頭をくるりと青く美しくしてまるめられ(剃髪はいつも坊守の妙野様でした)僧衣、俗衣何れを着用されても容姿端正にして群をぬき、あの方が浄迎寺さんと、他所の方でも一見してよく見分けられました。
あわせて非凡なる徳能のお方でありましたので、宗門に於ても、「佐名伝さん 佐名伝さん」 と、親しみをもって敬呼せられました。 名実ともにすぐれたりっぱな御えんさんをいただいた私達門徒は、ほんとうに、しあわせでありました。
花岡たのむぞ。と本山御法主様より御親認のおことばをいただかれましたのは、御法主、下市御坊へ御巡錫のみぎり、法師は、奈良教区宗会議員、吉野北組組長として管下の宗務状勢を御報告せられた時のことでありますが、師は懇望せられて宗門の要職を長く歴任せられましたのも、うべなるかなと、さっせられます。
浄迎寺、今日の壮観を見るに至りましたのは、山内に太鼓樓、控室(もと為人会会場と称し会員修学の部屋でありました)、鐘楼(梵鐘は大東亜戦に供出せられその後御開山聖人七百回大遠忌記念に再鋳) 、庫裡、西客間、等の建立をはじめ本堂前庭の一部拡張整備せられ、門徒と共に浄迎寺づくりに、御精進下さったのであります。
本堂内の浄化と整備には格別の留意をせられ、きちょうめんな法師は常に門徒衆とともに本堂を美しくすることにつとめられました。ちくじ、もとめられた仏具の手入れも、みがきものは為人会(仏青相当)によって行われ、金色さんぜんとして、はえていました。 毎年報恩講のさい、おがみえます聖人御一代の四幅の御影をはじめ、法師の時代に整えられ今に残るもの数多くあります。
お荘厳は、佐名伝さんだ。と言われた位美しくてりっぱにせられました。特に報恩講のお荘厳は御供物をはじめ松一式の仏花は実にりっぱなもので、代々門徒中より次次にと若き人々に伝えられまして、現在に至っております。門徒のお内仏のお荘厳もこれにならって、ていちょうに行われるもととなりました。
信仰のよろこびをわかち合うつどいとして、十日寄り(現在の門派講)と称し毎月十日に門徒の男子がおまいりして、お勤めやその作法を習うとともに、割ごうでご飯をいただき談笑のうちに楽しい聞法の場とせられ、よろこびをともにせられました。
又尼溝(現在の慈光会)という、したしみのおぼえる名でありますが、門徒の美女が「今晩尼講やで」と楽しくつどい相むすび法を聞く場とせられました。家庭における信仰を生活の根深いいしづえともなる場をそれぞれつくって下さったのであります。
為人会は区内青年男女を対照として結ばれた会(現在の仏青、或いは樹心会に相当)でありまして、菊水の紋章を会旗とし、会則も仏教教理に基き若き身心の錬成にあたられまして、区内より材能有為の人々を数多く生み出されたのであります。
子どもたちのつどいとして、日曜学校をひらき、歌を歌い、カードやお菓子で楽しみのうちにお話しをきき、仏さまの前で楽しい場をあたえました。特にかな文字の『正信偈』をもたせて、こどもたちとともに大きい声で力一ぱいのおつとめを行いました。これがため門徒お内仏の報恩講のさいは、音量きわめてゆたかな大雄御導師にまけじと、小さい子どもたいは時にだっせんしながらも、にぎにぎしくおつとめしたものでした。
仏事作法もちつじょ整然として行う如く指導下さったのでありますが、げんかくな中にも、□に入って、これにとらわれざるゆとりのあるいわゆる佐名伝さん式のみちびきをして下さったのであります。
正信偈勤行の音譜も浄迎寺流とも申しますか、ありがたみの深まるものでありました。
今日区内の諸儀式にはそのおかげが伝わってあります。
遺徳に生きる、はげみが何より大事なことと、門徒はもとより村の方々もともども精進をつづけられております。別面に記載せられました通り、法師は広く社会のためにつくされましたが、就中、佐名伝の人づくり、村づくりにその生涯をかけられました。これがため区民挙げて師の頌徳碑を建立して感謝敬仰せられました。師逝きて二十三回忌相当、昭和四十年三月、浄迎寺山門前の浄地に遷座して、碑文を新たに刻して永却に感謝の意を表しました。
私達門徒も遺徳にこたえる道は、ただ一つ、信心のはげむことなりと存じます。時世の流転急なる今日の迷わず溺れず、流れにそった手綱を僧俗一体となって、信仰の心手をかたくにぎりしめ愛山護寺にはげむことこそ報恩感謝の道と存じます。
合掌