top of page

​花岡大学の足跡

花岡大学の原点
ー育まれた文学の芽ー

1909年2月6日に大阪市で生まれました。父・花岡大雄は文学を志して東京に遊学した経験を持つものの、兵役や実家の住職継職のため郷里に戻り、吉野の山奥にある浄土真宗本願寺派末寺・浄迎寺の住職となりました。作家の夢は断たれましたが、文学への情熱は衰えず、書斎は文学書で溢れていました。

大学はその父の影響を受け、幼い頃から文学に親しみ、小学生の頃にはモーパッサンやドストエフスキーを読み、中学生になると詩や俳句を作り、同人雑誌を発行するなど、早熟な文学少年として育ちました。父はそんな息子を温かく見守っていたようです。

1927年から1932年まで龍谷大学予科および文学部史学科に在籍し、西本願寺で得度を受け、卒業論文では「足利義政の研究」を執筆。在学中には同人雑誌『文学劇場』を創刊し、小説を発表。短編集『魑魅魍魎』を自費出版するなど、精力的に創作活動を行いました。

この出版を最も喜んだのは父・大雄で、息子の本を常に持ち歩き、自慢していたといいます。大学自身も「ものが書ける人間になれたのは父のおかげ」と語っており、父の存在が彼の文学人生に大きな影響を与えたことがうかがえます。

筆と法衣を携えて
ー創作のはじまりー

花岡大学は、父・大雄の意向により学生結婚をし、卒業後に得度を受けて寺の跡継ぎとなりました。しかし、旧来の寺の風習に馴染めず、大阪府南河内郡の天野小学校で代用教員として働き始めます。ここでの子どもたちとの出会いが、彼を児童文学の道へと導きました。

当時、『大毎コドモ』の編集をしていた友人・上原弘毅から原稿依頼を受け、試しに書いた童話が好評を博したことをきっかけに、本格的に児童文学の執筆を始めます。NHK大阪放送局で作品がラジオ放送されるようになると、各雑誌からの依頼も増え、大学は「子ども向け」ではなく「文学性の高い児童文学」を目指すようになりました。

1933年、24歳で自費出版した短編集『魑魅魍魎』で作家デビュー(ペンネーム「大岳」)を果たし、同年に千代子と結婚。26〜27歳の間、天野小学校で教鞭をとりながら、童話作家連盟を結成し、同人誌『童話作家』を発行しました。その後、布施第三小学校に勤務し、1938年(29歳)には臨時召集で中国戦線に出征。戦地でも執筆を続け、この時期、東大寺の長老・清水公照師と親交を深め、生涯にわたる友情を築いたことも、大学の精神的支えとなりました。

童話に託した希望
-戦後と文学活動-

戦前・戦中の歩み
花岡大学は1940年、天王寺中学校で教員として勤務を始めましたが、1942年に再び召集され、中国戦線での戦闘に従事しました。戦時中も筆を止めることなく、戦地で作品を書き続けたといいます。戦争のさなか、父の訃報を手紙で知るという悲しみも経験しました。

戦後の復員と教育者としての活動
1946年、山口県仙崎港に復員した大学は、父の跡を継いで住職となる一方、県立吉野女学校(現在の県立大淀高等学校)で教鞭をとりました。7人の息子を育てながら、昼は教員、夜は寺務と執筆に励むという多忙な生活を送りました。

 

児童文学との出会いと創作活動の始まり
大学が児童文学に関わるきっかけは、天野小学校で代用教員をしていた頃、子どもたちとのふれあいから生まれました。友人の上原弘毅から雑誌『大毎コドモ』の穴埋め原稿を依頼され、初めて童話を執筆。これが好評を博し、本格的に児童文学の道へ進むことになります。

 

文学性と宗教性の融合
NHK大阪放送局で作品がラジオ放送されるようになると、各方面から執筆依頼が舞い込みました。大学は「子ども向け」にとどまらず、「文学性の高い作品」を目指し、さらに仏教の教義を学ぶ中で親鸞の思想に傾倒。児童文学にも宗教的精神を取り入れるようになりました。

当初は「宗教臭い」と批判されましたが、やがてその独自性が評価され、1959年には短編集『かたすみの満月』で小川未明文学賞奨励賞を、1961年には長編『ゆうやけ学校』で小学館文学賞を受賞しました。

 

文化活動と児童文学への貢献
1960年には川村たかしらと共に近畿児童文化協会を設立し、機関紙『近畿児童文化』を創刊。児童文学の発展に大きく寄与しました。彼の作品は、文学性と宗教性を融合させた新しい児童文学の地平を切り拓いたと評価されています。

文筆と郷土愛の交差
-郷土史への情熱-

精力的な創作活動を行う一方で、郷土史家としての活動にも力を注ぎました。1956年には吉野史談会を設立し、郷土である吉野をテーマにした機関誌『吉野風土記』の編集を開始しました。この機関誌は1956年から1968年まで刊行され、総勢約500名の執筆者が参加し、吉野地域の自然、歴史、文化をまとめた貴重な資料となりました。

特に注目すべきは、数多くの人々へのアンケートや著名人からのメッセージを掲載した「第3巻:大峯論争(1957)」です。この巻には、交流のあった福田定一(後の司馬遼太郎)から寄せられた文章も含まれており、郷土文芸誌の歴史に残る重要な資料となっています。

花岡大学の郷土史に対する情熱は、地域の文化や歴史を後世に伝えるための重要な役割を果たしました。

仏典童話への道
ー児童文学と仏教説話の融合ー

成長した子どもたちに寺を任せ、京都に移住しました。京都女子大学の助教授として教壇に立ち、龍谷大学や大谷大学でも非常勤講師を務めながら、講義と執筆に専念する充実した日々を送っていました。特に、龍谷大学教授で旧友の芳村修基氏との再会が転機となり、仏教精神と文学精神を融合させた「仏典童話」創作への道が開かれました。

この「仏典童話」は、仏教説話をもとに、教義を直接的に語るのではなく、物語の感動を通して仏教の本質を伝える独創的な文学形式です。慈悲や捨身の精神を物語にさりげなく織り込み、読者に深い感動と温かい心を届けました。清水公照氏の挿絵による『赤いみずうみ』『蟇ぼとけ』はベストセラーとなり、大きな反響を呼びました。

1966年には京都深草に居を構え、京都女子大学の助教授に就任。同年、『妙好人清九郎』を刊行し、文学活動を本格化させました。1968年には幼年文学懇話会を結成し、児童向け雑誌「すねいる」を創刊(1973年まで継続)しました。1971年には京都女子大学の教授に就任しました。

1973年には『大淀町史』の文学編で「大淀町の伝説と昔話」を担当し、民話や説話への関心を深めました。この頃から、ブッダの生前の物語であるジャータカなどの仏教説話をもとにした仏典童話の創作を始め、子どもたちに仏教の教えを伝える新たな試みに取り組みました。

孤高の童話作家
ー語り継がれる心の物語ー

花岡大学は64歳を迎えた1973年(昭和48年)、これまで関わってきた日本児童文学者協会などの学会や、各種の会の理事・評議員などの役職をすべて辞し、創作に専念する道を選びました。通常なら後進の育成に回るところを、彼は「遊戯三昧」の境地で、自らの創作にさらに没入することを決意したのです。

同年、個人雑誌『まゆーら』を創刊。全ページを自ら執筆・編集し、費用はすべて自費で賄い、希望者に配布しました。雑誌には定価を設けず、支援金を募ったところ、その支援が次第に集まり、発行部数は当初の500部から最終的には3200部にまで伸びました。読者は国内にとどまらず、ハワイやアメリカ、カナダにも広がり、熱い支持を集めました。『まゆーら』は年間6冊発行を休むことなく続け、1988年(昭和63年)3月の第92号以降は妻・千恵子夫人が編集を引き継ぎ、第100号まで刊行されました。この雑誌には「がまぼとけ」「世界一の石の塔」「月」シリーズなど、後に映画化された名作も多数掲載され、花岡の晩年を代表する作品群となりました。

1974年(昭和49年)、京都女子大学を定年退職後は奈良文化女子短期大学教授として教育者の道を続け、1977年(昭和52年)には第1回正力松太郎賞、1980年(昭和55年)には本願寺派教学助成財団名誉総裁賞を受賞し、その業績が高く評価されました。

1986年(昭和61年)、奈良県の大阿太高原には、代表作「百羽のツル」の一節を刻んだ「花岡大学童話碑」が建立され、清水公照師の揮毫(きごう)を受け、その名は後世に残されることとなりました。

そして1988年1月29日、肺気腫により79歳の生涯を閉じました。命尽きるまで筆を置くことなく創作を続けた彼の生き方は、仏典童話で繰り返し描かれた「捨身の心」そのものであり、その作品と教えは今も多くの人々の心に生き続けています。孤高の道を歩み続けた花岡大学の足跡は、児童文学の世界において永遠に輝き続けるでしょう。

〒638-0831

奈良県吉野郡大淀町佐名伝274

TEL:0747-52-3314

​FAX:  同  上

E-mail:shougouzanjoukouji@gmail.com

浄土真宗本願寺派(西本願寺) 称号山 浄迎寺

Copyright © 浄迎寺

 

© 2035 by 浄迎寺. Powered and secured by Wix

 

bottom of page