金属回収令と寺院の鐘供出


1941年(昭和16年)、日本政府は金属回収令を公布し、戦時下の金属不足を補うために広範な供出を推進しました。この政策の影響は寺院にも及び、全国の鐘楼の梵鐘が供出対象となりました。仏法を伝える尊い仏具が、砲弾や弾薬へと姿を変えざるを得なかったことは、まさに痛ましい歴史の一頁です。写真は浄迎寺に残る当時の写真ですが、供出はの直前に法要が営まれたようです。
鐘の正面に「吉野山本派本願寺説教所 太子講本部」の文字が、右側には「発起人 才谷西照寺 楠山盡空・・」、左には「発起世話人 長門国法住寺 萩嶺玄龍 吉野山 大東富太郎・・」と刻まれています。
吉野山説教所にあった梵鐘を、昭和15年までに、縁あって花岡大雄師が浄迎寺に移されたものです。その数年後、おそらく昭和17年頃には供出させられたものと思われます。
佐名伝の戦没者と『遺芳録』
ー受け継がれる追悼の記録ー

佐名伝では戦争当時、106人が招集され、27人の尊い命が奪われました。無念の死を遂げた人たちの事績や思いを風化させまいと、村の門葉遺族会が戦後まもなく『遺芳録』を発行しました。
そこには遺影、法名、俗名、行年、官位等級、、戦死公報寫、故人の経歴や趣味嗜好、遺留品に至るまで、詳細に記録されています。
佐名伝区では、毎年丁重に戦没者の追悼法要が営まれています。
決して誇るべき遺産ではありませんが、忘れてはならない、忘れることのできない「負の遺産」として、遺芳録はじめ、戦没者の追悼を大切に継承して参りたいと思います。
大阿太高原にあった‶幻の飛行場″
阿太峯飛行場
大阿太高原の西側、現在の福神駅から南西に1〜2キロほど行った丘の上、奈良県五條市大野新田町(旧・宇智郡大河太村)に、かつて「阿太峯飛行場(あたみねひこうじょう)」と呼ばれる旧海軍の秘密飛行場がありました。
この飛行場の建設が始まったのは、太平洋戦争末期の昭和20年(1945年)6月ごろ。秘匿(ひとく)基地、いわゆる「隠し飛行場」として造られたもので、滑走路は長さ600メートル、幅30〜60メートルありました。
阿太峯飛行場は、特攻機を発進させるための基地ではなく、九三式中間練習機の訓練や、特攻に備えた分散的な使用が主な目的だったと考えられています。
終戦後、この飛行場は役割を終えて放棄され、土地は元の地権者に返されました。現在では、かつての滑走路の一部が道路として使われているだけで、当時の面影はほとんど残っていません。
地元の方の話によると、当時この飛行場にいた兵隊さんたちは、梨山(なしやま)までお風呂に入りに来ていたそうです。戦争の記憶を語ってくださる方も少なくなってきた今、この地に眠る歴史を、私たちは静かに語り継いでいきたいものです。