花岡大学年譜
『花岡大学童話文学全集』第6巻
『花岡大学研究・付著作目録』
1909年(明治42年)0歳
2月6日 大阪市で生れる。
父、花岡大雄(当時砲兵曹長として第4師団司令部に勤務)と母、チクの次男。長男は前年誕生直後夭折。「如是」(ゆきよし)と命名される。
1910年(明治43年)1歳
秋、父花岡大雄が住職継職のため、大阪から奈良県宇智都大阿太村 (現吉野郡大淀町)佐名伝の浄土真宗本願寺派末寺、浄迎寺に帰る。父花岡大雄、収入役として役場に勤める。
1911年~1913年(明治44~大正2年)2~4歳
のち童話の舞台にもなる吉野川ぞいで幼年時代を送る。
1914年(大正3年)5歳
小学校へは普通であれば満6歳で入学するのだが、収入役の子ということで特に乞うて5歳で1年生に編入し聴講生となる。
1915~1920年(大正4~9年)6~11歳
4月、改めて正式に阿田小学校に入学。体格のよい早熟な子どもであった。父から「赤い鳥」や「金の船」など与えられ、また書架からトルストイやドストイェフスキーをとりだしてよむが、なかでも最も印象に残ったのが有島武郎の「或る女」だったという。「曲がりなりにも、ものが書ける人間になれたのは、この父のおかげだ」と後に書いているように小学生時代から文学的な影響を受けたようである。
1922~1925年(大正10~14年)12~16歳
4月、奈良県立五条中学校に入学。記念祭に独唱して好評を受けたりするが、やがて型どおり文学少年となり、まず吉田絃次郎のセンチメンタルの洗礼を受けたのち、2年生ころから友人数名と同人雑誌を出して詩や俳句をつくる。相変らず父の文学書を読。学年が進むに従って成積が下向きとなり、5年生ころには手のつけられない軟派不良少年となって遂に退学。それで京都の足利浄円師にあずけられ、私立両洋中学に編入学させてもらったものの、ここでもまた異性問題で事件を起して半年で退学。
1926年(大正15年)17歳
両洋中学の退学は父を絶望においこむ。それで少なくとも寺院を継職できるように中央仏教学院に入学して僧侶としての教養、技能を身につけさせようとするが、ここでも同人雑誌などに加わり勉学に身をいれない。しかしとにかく半年で卒業。
1927~1932年(昭和2~7年)18~23歳
4月、龍谷大学予科に入学。例によって文学青年らしく殆ど出席しないで学業を怠け、専ら酒色におぼれる。「文芸市街」という同人雑誌に拠り小説を書きはじめる。のち同じく同人雑誌「幌馬車」と合同して「文学劇場」と改称、秉田(ひきた)新二郎のペンネームで旺盛な活動を開始して有望新人として期待された。そして流行の波に乗る程度の左傾もしたという。
予科を終え文学部では史学科に進学し「足利義政の研究」を卒業論文に択ぶ。学部では学友会文芸部の幹事にもなり機関誌「宗教と芸術」の編集をしたり、短歌会などの主宰もする。
1933年(昭和8年)24歳
11月、はじめて短篇小説集「魑魅魍魎」を自費出版する。
一部で好評であったが何よりも父が最も喜んで持ち歩いたという。
学生結婚、またいとこの花岡千代子と挙式、東山の下宿で同居する。
1934年(昭和9年)25歳
3月、龍谷大学を卒業。卒業時に得度。「大岳」と改名、僧籍に入る。卒業はしたものの不況で就職はなく、約1年、自坊で法務などして過ごす。
1935年(昭和10年)26歳
4月 大阪府南河内郡天野小学校の代用教員となり、宿直室で自炊して2年間を送る。はじめて接する子どもたちとの生活が意外に新鮮なのに驚く。
「大毎コドモ」の編集をする旧友の上原弘毅から童話の依頼があり執筆する。これがきっかけで童話ものを書くようになる。
1936年(昭和11年)27歳
1月、童話作家連盟(後にクラブ)を結成、中川静村、上原弘毅、冬野徳隆らが同人。ガリ版刷の「童話作家」を発行。昭和12年9月まで矢つぎ早に12号までだす。
1937年(昭和12年)28歳
4月、大阪府布施第三小学校訓導として転勤。
童話集「牛と牛の子を満州の近沢書房から出版。
5月、「小学生美談二年生」(国民出版社)、つづいて「月夜の牛車」(駸々堂)を出版。作品はなお習作の域を出ない。
1938年(昭和13年)29歳
1月、下畑卓と2人で「新童話集団」という雑誌を交替で編集をして出しはじめる。しかし、文学論や童話観の相違で7号で袂をわかつ。
3月9日、大阪中央放送局から「牛車にのった先生」が、はじめてラジオ放送される。
9月、臨時召集を受け奈良歩兵38聯隊に入隊。3ヵ月ののち同年兵は戦地へいくが初年兵係として残留。遺骨係として同じく残留した東大寺の清水公照師と親交を深める。のちに「おとうさんの手紙」にまとめられたカタカナ童話など精力的に書く。
1939年(昭和14年)30歳
4月、新児童文学集団を発足。下畑卓、岡本良雄、江上フジ、阿貴良一、石橋達三らと共に入隊中だが同人となる。
「シロイキクノハナ」「春のランプ」を発表。
8月、召集解除。布施第三小学校に復職。
9月、「童話作家」復刊、中篇の力作「鶏」を連載する。
このとき中川正文が同人に参加。
このころ、下畑や岡本らから所属をはっきりせよといわれ、新児童文学集団を退会。しかし、前から随時ひらかれていた「どんぐりの会」はつづけられる。これはおでん屋などで児童文学を語る集まりで、新児童文学集団、童話作家クラブの同人が所属をこえて熱っぽい議論をたたかわせた。花岡は、幼年童話を喫茶店童話と軽蔑し、わざと喫茶店で書いてみせたりしたので騒然となる。
1940年(昭和15年)31歳
童話の創作旺盛。「子供と語る」「童話研究」「コドモ新聞」本願寺の「日曜学校研究」「婦人」などに精力的に執筆。紀元2600年式典などで国内賑わう。
5月、天王寺中学校教諭となる。
10月、短歌の鑑賞と自作の短歌を収めた「聖戦の歌を語る」(興教書院)出版。
1941年(昭和16年)32歳
1月、「おとうさんの手紙」(横山書店)出版。童話集としては、はじめて本格的な作品集であり、大阪心斎橋フジ屋で出版記念会をひらく。
このころから、槇本楠郎、芦谷芦村などの愛顧を受ける。
「勲章」など初期の力作を続々と多産する。
1942~1946年(昭和17~22年)33~37歳
2月、童話集「勲章」(横山書店)出版。すでに太平洋戦争に突入し、国内外騒然たる中、4月、再び臨時召集を受け大阪に入隊。やがて釜山から朝鮮半島を北上、山海関、天津、北京を経て南京、そこから舟で長江をさかのぼり武昌につく。そこで民間の日刊「大陸新聞」に書いたことで漢口にいた実弟の文雄氏と邂逅。やがて金牛鎮、衡陽などに駐屯。その間、中隊をはなれ野戦倉庫勤務、師団司令部報道班で日刊ガリ版刷新聞の責任者になったり、中隊功績係となったりしながら、作品を書きつづける。
この中国応召中、一度脱退した新児童文学集団に再加入。第14輯(18年6月)に「春のランプ」を戦地から寄稿している。
18年12月、そこで父の死を知る。自室にひそかにお内仏をつくった日であったという。万年上等兵で終戦を迎える。
洞庭湖畔で1年間引上船をまって21年5月、山口県仙崎港にもどり復員。
洞庭湖時代の俳句ー「洞庭湖夜ならんとし雪脈々と」
1946年(昭和22年)37歳
6月、野長瀬正夫、中川静村ら3人で橿原書房に勤務。これという編集事務もなく時間をもてあましていたようだが、物資の不足のため、7人の成長ざかりの男の子をかかえ、苦しい生活がつづく。
1947年(昭和23年)38歳
1月、新児童文学集団の同人たちがそれぞれ復員し再び活動しはじめる。用紙や印刷の技術も悪くガリ版刷の「機関車」を「新児童文学」を復活し刊行するまでの11輯発行する。当初の同人は、阿貴良一、石橋達三、江上フジ、岡本良雄、雑賀武夫、中川正文、花岡大学、牧野弘之、水藤春夫、吉岡佐であった。花岡は毎号執筆している。「紙風船」(1輯)「短刀」「山の写真」(2輯)「鮎」(3輯)「虫のひげ」(4輯)「空いっぱの空」(5輯~) 「鶏の目」(10輯)「秋の金魚」(11輯)など毎号に執筆。永年貯えていたものが一時に爆発した感じで、しかも後年代表作となる好短篇も多い。
「新児童文学」は24年9月復刊、「機関車」についで中川正文が編集。「雪の爪」(1号) 「鈴」(2号)「3時のパス」(3号)「水蜜桃」(5号)「白い午後」(7号)「猫」(14号)など発表。
4月、奈良県立吉野高等女学校(のち新制の大淀高校)に勤務、「世界史」を担当、以後20年近くつとめる。
1948年(昭和23年)39歳
2月、短篇集「小さな村のランプ」(百華苑)出版。装幀棟方志功、解説亀井勝一郎。完成度の高い力作ぞろいであった。
このころから数年にわたりNHKの子ども向けの連続劇「清願寺の子どもたち」というラジオ放送がはじまり、好評。
またサンケイ新聞文化部にいた福田定一(司馬遼太郎)と知り合い、頻繁に逢い文学談。
やがて寺内大吉、石浜恒夫その他とともに同人雑誌「近代説話」をはじめ、多くの直木賞作家をだすことになる。
また、このころから「童話教室」(栂書房)「赤とんぼ」 (実業之日本社)など、商業雑誌にも執筆をはじめる。
1949年(昭和24年)40歳
1月、幼年童話集「かたえくぼの歌」(奈良文庫)出版。
8月、「花ぬすっと」(百華苑) 出版。
9月、ガリ版刷の郷土研究誌「吉野風土記」を主宰して発行する。以後30号までつづける。
「新児童文学」を復活し発刊もはじめる。
「雪の爪」(1号)、「鈴」(2号)、「三時のバス」(3号)、「水蜜桃」(5号)、「白い午後」(7号)、「猫」(14号)などを発表する。
1950年(昭和25年)41歳
このころNHKの大蔵宏之、雑賀武夫、小山賢市らと親交をつづけ数えきれないほどの放送作品を書く。やがて民間放送が発足するが、対抗のため連続ラジオドラマ「のら猫べンちゃん」を中川正文の脚色で進めたりする。 また「お迎え狸」の原作を書き、土井行夫の脚色で放送。
1952年(昭和27年)43歳
4月、著書としては「月夜念仏」(永田文昌堂)を出版したのみで、童話集など10年ちかく出版しなかったのは、25年以来、児童出版の不況が慢性化したこともあったが、専ら放送作品に熱中していたためである。
また平塚武二との交遊も深く、東京へいくと滞在の3日間、岡本良雄、久保喬らも加わって同じ宿に泊り、出版社をひきまわしてくれたりする。
1953年(昭和28年)44歳
6月、「新児童文学」第4次復刊、5号までつづくが、花岡は2号に「黒い門」を書いただけである。
1956年(昭和31年)47歳
東映が教育映画のストーリーを募集していたのに対し「お迎え狸」を応募、佳作となるが辞退、しかし結局真先に映画化するとの条件で受諾し、映画が完成する。
中川正文編集「月刊児童文学」に「みどりのランプ」を連載。のちにこれが最初の長編の出版となる。
1957年(昭和33年)48歳
1月、「神話ものがたり」(学研) 出版。住井すゑ氏が「橋のない川」の取材のために来県、その途次来寺され激励を受ける。しかし、文学的にはこの前後、最も沈滞し、気勢あがらず内攻的になっていた。
1958年(昭和33年)49歳
1月、八男である末子である大純、10歳で急死、悲嘆にくれる。
またNHKの子ども向けラジオ放送が半年にわたり連続劇としてつづく。
睡眠時間2、3時間、家族全員にコピーつくり、原稿はこびなどさせた。
1959年(昭和34年)50歳
5月、長篇「みどりのランプ」(講談社)出版。
7月、短篇集「かたすみの満月」(百華苑)をひきつづいて出版。
ここ数年の沈滞を一気に破り、これから質量とも充実した仕事ぶりが再開される。
1960年(昭和35年)51歳
4月、前年出版した「かたすみの満月」(百華苑)により小川未明文学賞の奨励賞を受ける。
長篇「赤とんぼの空」(理論社)出版。
このころ石森延男氏と知り合い、以後篤い知遇を受ける。
川村たかし、桜井高明らと同人誌「近畿児童文化」を発刊する。
1961年(昭和36年)52歳
2月、長篇「ゆうやけ学校」(理論社)出版。
10月、「ゆうやけ学校」で小学館文学賞を受ける。
11月、「ゆうやけ学校」の受賞記念会を大阪で開催。
1962年(昭和37年)53歳
9月、世界民話の旅」(理論社)。
1963年(昭和38年)54歳
1月、長篇「笑う山脈」(講談社)出版。
7月、短篇集「地獄のラッパ」(百華苑)出版。
8月、「70人の人間像」(百華苑)を引つづき刊行。秋には出版記念会を京都のホテル東園でひらく。
1964年(昭和39年)55歳
3月、戦後ずっと勤務した大淀高校を退職。フリーとなる。
10月、「世界童話12ヵ月」(大阪教育図書)出版。
1965年(昭和40年)56歳
7月、再話「世界の名作文学」(小学館)出版。
9月、「3分開講話」(実業之日本社)出版。
10月、京都女子大学非常勤講師となる。
11月、幼年童話集「百羽のツル」(実業之日本社)出版。
このころから旧友芳村修基(龍谷大学教授)との友情急速に復活。毎週のように喫茶店で逢って議論する。
1966年(昭和41年)57歳
1月、民話「いっきゅうさん」(集英社)出版。
2月、母チク、往生する。
4月、京都女子大学の児童学科の助教授となり、龍谷大学、大谷大学の非常勤講師となる。この機会に京都の深草に移住する。再話「ソロモンの洞窟」(小学館)出版。
5月、伝記小説「妙好人清九郎」(百華苑)出版。再話「千早城のまもり」(小峰書店)出版。
8月、再話「八犬伝物語」(講談社)出版。
12月、伝記「ゴッホ」(小学館)出版。
1967年(昭和42年)58歳
4月、仏教エッセイ集「仏教的人間」(百華苑)出版。
6月、エッセイ集「児童文学の世界」(大阪教育図書)出版。
1968年(昭和43年)59歳
1月、野呂昶、石沢小枝子などと「幼年文学懇話会」を結成。「すねいる」発刊。以後月刊、48年解散まで休刊なく60号迄出す。再話「聖書ものがたり」(集英社)出版。
6月、放送の講演集「ひとりぼっちの念仏」(百華苑)出版。
7月、民話「よくばりものの話」(国際情報社)出版。
8月、講話「新3分間講話」(実業之日本社)出版。
10月、民話「世界民話12ヵ月」(大阪教育図書)出版。「世界神話12ヵ月」(大阪教育図書)出版。
このころから軍隊時代の戦友、清水公照との旧交、急速に復活。
1969年(昭和44年)60歳
1月、お話12ヵ月として「海ひこ山ひこ」「1つぶの麦」「てんぐのうちわ」「金のおの鉄のおの」「さるのてぶくろ」「3つの願い」「無敵4人組」「にんじん山のできごと」「福の神と貧乏神」「まっ赤なぼうし」「春のくちぶえ」「シンジュの玉」の12作品を出版(大阪教育図書)。
3月、「鬼のしくじり」(小峰書店)出版。
8月、エッセイ集「児童文学の探究」(大阪教育図書)出版。
9月、再話「15少年漂流記」(小学館)出版。
11月、「新仏教童話全集」全8巻(編著)刊行を開始する(藏館)。
1970年(昭和45年)61歳
1月、伝記「ただひとすじに」(実業之日本社)出版。童話集「新・仏教童話全集」の別巻「年中行事12か月」(法蔵館)出版。
4月、翻訳「シンドバッドの冒険」(文研出版)出版。
5月、野呂昶、川村たかし、京田信太良などと「幼年芸術」発刊。絵本に対して意欲を燃やしはじめる。
9月、法話「仏教女性の生き方」(本願寺出版部)出版。
11月、仏教随想「虚仮記」(法蔵館)出版。
12月、短篇童話集「あんずぬすっと」(学習研究社)出版。短篇童話集「やわらかい手」(講造社)出版。
1971年(昭和46年)62歳
1月、短篇童話集「赤い蝶」(探究社)出版。
4月、京都女子大学教授となる。このあたりから仏典童話を積極的にまた精力的に執筆しはじめる。
6月、短篇童話集「雪の爪」を「かたすみの満月に改題し(探究社)出版。、
7月、講話「逸話による人生講話」(大阪教育図書)出版。「仏典童話集成」(講造社)出版。仏典童話集「白い象」(構造社)出版。
9月、講話「人生の花たば」(佼成出版社)出版。
10月、長篇童話「チベットの風」(実業之日本社)出版。
11月、共著にて「心に種をまく」(佼成出版社)出版。
12月、講話「3分間エピソード」(実業之日本社)出版。
1972年(昭和47年)63歳
4月、民話「日本のまほう話」(偕成社)出版。長篇童話「こしぬけ左門」(岩崎書店)出版。短篇童話集「うろこ雲」(実業之日本社)出版。
5月、心斎橋の画廊で、第1回「書展」を開く。
6月、民話「ふしぎなたいこ」(文研出版)出版。
7月、仏典童話集「きんのはくちょう」(PHP研究所)出版。
10月、小説「ようこそ源左」(探究社)出版。
1973年(昭和48年)64歳
1月、日本児童文学者協会、日本児童文芸家協会、日本児童文学学会などを退会する。また1968年から主宰していた「すねいる」を60号まで出して解散する。ほかに「近畿児童文化」「幼年芸術」なども解散して、自らを孤独の状況におこうと意図する。伝記「野口英世」(集英社)出版。
2月、個人雑誌「まゆーら」を創刊。科学読物「くも合戦」(文研出版)出版。
9月、共著にて「おんなの曲線」 (PHP研究所)出版。
10月、伝記絵本「でんぎょうだいし」(すずき出版)出版。絵本「王さまシカのねがい」(岩崎書店)出版。
11月、幼児法話「とんがりぼうしのぎんのすず」(百華苑)出版。
1974年(昭和49年)65歳
3月、京都女子大学を定年退職。長篇童話「でこぼこ道」(あすなろ書房)出版。
4月、奈良文化女子短大の教授となる。法話集「ふろ念仏」(探究社)出版。
5月、仏典童話集「赤いみずうみ」(探究社)出版。
7月、妙好人伝「妙好人善太郎清九郎」(「月夜の念仏」改題)(探究社)出版。
9月 エッセイ集「幼年文学についての走り書き的覚書」(大阪教育図書)。
11月、仏典童話「蟇ぼとけ」(探究社)出版。絵本「五百本の矢」(徳間書店)出版。絵本「怪獣コダ」(徳間書店)出版。絵本「金のむぎ」(徳間書店)出版。
1975年(昭和50年)66歳
1月、民話集「六べえとクマンバチ」(あすなろ書房)出版。「親鸞全集」を共著する(講談社)。
2月、富山県教育委員会の講演パンフに「知恩の世界」を書く。
3月、仏典童話集「カランバの鬼」(理論社)出版。
7月、仏典童話集「空飛ぶ金のシカ」(旺文社)出版。
10月、中篇童話「みかん色の海」(探究社)を豆本で出版。
1976年(昭和51年)67歳
3月、前立腺肥大症のため京都第一日赤病院に入院、手術。
再話「今昔物語」(小学館)出版。
5月、退院する
9月、講演集「日々清々」共著にて出版(佼成出版社)。
10月、脱腸のため京都第一日赤病院に再入院手術。
11月、退院。再話「ガリバー旅行記」(小学館)出版。
12月、仏典童話集「にせものおおかみ」(妙心寺派宗務所)出版。日本の伝説「奈良の伝説」を岩井宏美と共著(角川書店)で出版。童話集「かえってきた白鳥」(PHP研究所)出版。
1977年(昭和52年)68歳
2月、呼吸困難のため倒れる。以後、完全に恢復したとはいえない。長篇童話「月の顔」(PHP研究所)出版。
3月、絵本「あばれんぼうの子どもライオン」(旺文社)出版。
4月、第一回正力松太郎賞を受ける。永年の仏教童話活動によるもの。このあと受賞記念パーティーを、京都ロイヤル・ホテル及びタワー・ホテルでひらく。童話集「白い少女」(探究社)出版。仏典童話集「餓鬼の目」(探究社)出版。仏典童話集「ほとけのひがさ」(探究社)出版。短篇童話集「かたすみの満月」(探究社)出版。
5月、民話集「くわんくわん」(集英社)出版。童話集「牛乳駅」(探究社)出版。
7月、人生講話「ここに生きる道がある」(PHP研究所)。民話集「おにのめん」(小学館)出版。
12月、仏教随想「南無の世界」(PHP研究所)出版。
1978年(昭和53年)69歳
5月、自伝抄「かたすみの道」(探究社)を豆本で出版。
7月、仏典童話集「なにやらチョロチョロ穴のぞき」(本願寺出版部)出版。
10月、長篇童話「月の道」(PHP研究所)出版。
11月、「しんらんさま」の紙芝居が出版される(すずき出版)。
1979年(昭和54年)70歳
2月、作家生活50年と古稀の祝賀会。約300名来場京都新ミヤコホテル。
3月、日本の伝説「伊勢、志摩の伝説」駒敏郎と共著する(角川書店)。マンガ本として「親鸞さまご一代記」(探究社)出版。
4月、「花岡大学仏典童話全集」全8巻刊行開始(法蔵館)。
7月、「限りある命を生きる」OP叢書(ミネルヴァ書房)出版。
9月、童話集「ちいさなとかげ」(探究社)出版。
11月、絵本「ベナレスのたか」(フレーベル館)出版。
12月、探究社画廊にて、第2回「書展」を行う。絵本「ブラジルのかぶとむし」(ぎんのすず幼教出版)。出版。「親と子の仏典童話」(小学館)出版。
1980年(昭和55年)71歳
1月、経典解説「大乗仏典のこころ」(法蔵館)出版。
3月、改装版である放送講演集「ひとりぼっちの念仏」(探究社)出版。絵本「おしゃかさまのおはなし」1~12(ビデオ・ジャポニカ)出版。
5月、「花岡大学童話文学全集」全6巻刊行はじまる。「三分間人生講話」全3巻(同朋舎)出版。
6月、京都女子大学で公開講座を行う。テーマは「児童文芸ゼミナール・花岡大学特集」講師川村たかし・西本鶏介らが参加。
7月、絵本「東大寺の伝説」清水公照と共著(法蔵館)で出版。書集「日々念仏」(岩崎書店)出版。「若狭越前の伝説」駒敏郎と共著(角川書店)で出版。
8月、改装版である「仏教的人間」(探究社)出版。
9月、絵本「さるのてぶくろ」(探究社)出版。
10月、本願寺教学助成財団名誉総裁賞受賞。龍谷大学報恩講にて記念講演。
1981年(昭和56年)72歳
8月、「美しい人生」(探究社)出版。
1982年(昭和57年)73歳
12月、「まゆーら」10周年記念をする。第三回「花岡大学書展」を、第1期、第2期と第3期と二回に行う。
1983年(74歳)
2月、『スダナ太子』探究社、出版。
5月、『いたずらたぬき』PHP研究所、出版。
6月、『百羽のツル』戸田デザイン研究所、出版。
12月、第4回「花岡大学書展」を行う。『どう生きればよいのか』探究社、出版。
1984年(75歳)
1月、『消えない声』佼成出版社、出版。
2月、『親鸞へのひとすじの道』探究社、出版。花岡大学仏教随想選集の1巻。
4月、龍谷大学に出講する。(担当、仏教文学)。
9月、「第1回まゆーらの会」東福寺にて行われる。『世界1の石の塔』戸田デザイン研究所、出版
10月、『火と燃えあがる信心』探究社、出版。
11月、『よろこびいっぱいの念仏』探究社、出版。
12月、10月に出版した3巻で、花岡大学仏教随想選集となる。『うそをつかない王さま』法蔵館、出版。『白ひげのおじさん』法蔵館、出版。『ほとけの目』法蔵館、出版。この3巻を仏典童話新作集という。
1985年(76歳)
4月、「第2回まゆーらの会」本願寺門徒会館で行う。龍谷大学に出講する。(担当、仏教文学)秋、富山で講演会を行う。
10月、「第3回まゆーらの会」本願寺門徒会館にて行う。『仏典絵本』全5巻、同朋舎出版。
1986年(77歳)
9月、『花岡大学研究・付著作目録』(朝枝善照監修) 喜寿記念として刊行、永田文昌堂。
10月、吉野佐名伝に「童話碑」建立。記念式典を現地で行い盛会であった。
1987年(78歳)
10月、龍谷大学深草学舎図書館に、花岡大学氏寄贈「花岡文庫」開設。
12月25日、京都第一赤十字病院に入院。
1988年(79歳)
1月29日、京都第一赤十字病院にて午後1時15分、千代子夫人に見守られて示寂。諡りて「孔雀院釋大岳」。
1月30日、親族通夜。
1月31日、浄迎寺本堂にて通夜。
2月1日、本葬。会場、浄迎寺本堂。導師、光明寺住職。全国各地より多数の愛読者が参詣され花岡大学先生との別れを惜しむ。
3月13日、満中陰法要、浄迎寺。吉野山「さこや旅館」にて先生を偲ぶ集い。参加者に『花岡大学短篇集』(浄迎寺刊)を贈呈。
3月、京都東山天得院の東福寺保育園(爾文敬園長)に、花岡大学師の書が記念の石碑として完成。碑文「お父ちゃんが笑ったときは仏さまの顔だよ お母ちゃんが笑ったときは仏さまの顔だよ 東福寺保育園へ 花岡大学(印)」
『大きなおとどすん』すずき出版。
5月、『おはなしの森』10巻、同朋舎出版。
7月18日、第12回全国保育園長大会(松江一畑ホテル)において、名誉総裁賞を受賞。
10月、『宗教者は語る』(共) すずき出版。
1989年
1月28日、花岡大学先生追慕の1周忌法要を本願寺門徒会館で行う。
1月29日、吉野浄迎寺にて1周忌法要、光明寺主導師にて勤修。
『月下游林・花岡大学追悼』探究社、出版。
4月16日、読売テレビ(日本テレビ)にて、「まゆーらの心―花岡大学の世界―」全国放映、ディレクター藤井賢祐。
1990年
1月27日、『まゆーら』100号完結記念の集い開催。併びに3回忌の追悼法要を、龍谷大学顕真館本堂において開催。同図書館の「花岡文庫所蔵品展」も行われる。
2月6日、『まゆーら』100号、まゆーら社、出版。
8月28日、花岡大学仏典童話(1)『消えない灯』ちくま文庫、筑摩書房、出版。
9月25日、花岡大学仏典童話(2) 『金の羽』ちくま文庫、筑摩書房、出版。
1991年
2月6日、『花岡大学歌集』まゆーら社、出版。
1995年
4月15日、朝枝善照『仏典童話のこころ―――花岡大学先生の思い出――』永田文昌堂、出版。
1997年
4月26日、東山のパークホテルにて「花岡大学先生没後10周年の集い」開催。
11月10より15日、真宗保育学会主催「花岡大学没後10周年回顧展」龍谷大学大宮学舎本館にて開催。
1998年
8月28日より9月10日、大淀町立図書館主催「作家・花岡大学生涯展」開催。
9月5日、大淀町文化会館に於いて、生涯展の記念講演、朝枝善照「花岡文学を語る」開催。
9月10日、大淀町立図書館での生涯展を記念して、朝枝善照『お念仏のたね――花岡大学師・才市さん・山頭火さん――』探究社、出版。
2010年 花岡大学生誕百周年記念事業が大淀町で開催される。