請願寺の狸ばやし 福田定一
また、ベル。
鉛筆を走らせながら左手が自動的に受話器をとる。京都からの長距離電話。しばらく会わなかったマガジンのA氏の声が、かすかに響いていた。
「花岡さんとこへ何か、原稿を頼みに行くそうじゃないか。ちょうど、こちらも用事があるんだ。一緒に行く日を決めとこう・・・・・・」
その受話器をおろすのを待ちかねたように、婦人記者のMさんが問いかけて来た。
「いまのお電話、花岡先生て、花岡大学さんじゃありません?」
「ええ、児童文学の・・・・・・」
「うわア、その方なら、私、小学校の恩師やわ。とてもいい先生だったけど、もうれつな子沢山で、子沢山の話を聞くと、いつも先生を憶い出しますねん」
「大へんな教え子だな。だけど、花岡さんの『請願寺の子供達はいい聴取率だね」
これはラジオ担当のI君。
ところで、当の僕は、花岡さんのことについては、この連中の半分の知識ももってないのである。
花岡大学という名を知ったのは不勉強にも、五年前だ。
書店で新刊書の棚を見上げていると、黄と赤のカラーを無作に塗りなぐった、素晴しい装幀の本が眼についた。抜きとってみると、装幀は版画の棟方志功、題は「小さな村のランプ」、著者は花岡大学とある。
棟方の画に興味をもっていた時なので、買った。ところが、読んでみると、これは並大ていの作家でないことに気づいた。
それからのち、本願寺のNさんに、政治経済、教育、社会事業など、一般社会に活躍して いる宗門出身者の名前をあげてもらったとき、文学方面の項でまっさきに花岡大学の名を指折った。はじめて、花岡大学が本願寺僧侶であることを知った。
A氏は京都から、僕は大阪から、それが京都丹波橋駅で落合った。奈良電で橿原神宮駅へ直行。
吉野線に乗換。大和盆地が南に行詰ったこのあたりの風景は、ことにうつくしい。「やわらかな稜線、ふわっと手触りのよさそうな線、大和のこのあたりの感じは全国にないな。僕は九州生れだが何か、ここで昔むかし、生れたような気がするんだ」
とA氏、車窓へ体をまげる。
すばらしい好天なのに、田の面の緑は、不思議にチカチカ光を反射しない。
この辺の風景が、光をみんな吸収してしまう呼吸機能をもっているのか。
それとも、光をいぶしてしまう特殊な水蒸気でも立昇っているのか、飛鳥から、この辺りにかけての景色は、肌理(きめ)が他の土地とまるっきり違う。
「大阿太だよ」
降りた。
じつに、ふわりと降りた感じだった。それほど、あたりはお伽ばなし的な風景だった。
低い丘が、コの字形に田畑の緑を包み、コの字の入口を吉野川の清流が遮断し、その南には、重畳とした大和アルプスの連山が薄く紫にかすんでいる。
それが花岡さんの村、佐名伝であった。
「あそこだよ、寺は」
小さな村の寺だった。
「 町寺や田舎寺にも彩のいいものがあるなア。寺は名刹ばかりじゃないね」
「あの勾配の度合。屋根の面積と下部構造のバランス。それが一分でも違ったらあんないい形にならんだろう」
「長い長い時間をかけてやっとここまで完成した建築形式さ。古くさいが、悪かろうはずが ない」
「ただ、その安定した形にいつまでも安住してはいられない、というのが現代の課題だろう。これは建築の話でなく、宗教の話だ」
掛合漫才をするうちに、村道に出た。
公民館が一軒。
赤い屋根、モルタルの壁、二階建。失礼ながら、田舎には不釣合な近代建築(?)である。
その玄関に、大きな自然石の碑がひとつ。
花岡大雄 碑
奈良県知事 百済文輔
「ほウ、ひょっとすると厳父かな」
寺につく。浄迎寺。
「どなた」
玄関に出て来たのは大学生である。
それから高校生らしいのが一人。
ついで中学生位いのが、その肩からのぞく。
奥からバタバタ足音がして、小学生が二人。
その足音を追ってさらに二人ばかり、眼の利発そうなちんぴらが出現した。
それが大きい順に並んで、
「どなた」とやった。
とたんに、婦人記者Mさんを思い出した。
相棒A氏は、花岡さんがいまシナリオを書いている、BK全国放送の連続劇「請願寺の子供達」のいろんな場面がそのまま、眼の前に天然色で現れたかと驚いたそうだ。
「ひイふウみイよウ・・・・・・むウなア、か。おやおや、花岡さんめ、二人だけ、さすがに遠慮したな」
というのは、「請願寺の子供達」で貧乏な山寺の住職、良海さんを中心に活躍するその五人の息子たち、一海、二海、三海、四海、五海、の諸君よりも現実には二人多く、六海、七海君がゲンとして存在しているのである。
「おいでになる時間がもう少し遅いだろうといって、父は法事、母は買物に出かけました」
長兄の一海君が代表した。
とりあえず茶の間へ。掛軸がある。
樹心弘誓の仏地 六十五仏子釈大雄書
「ははア、やっぱり花岡さんのお父さんだった。大雄って人は」
「覇気横溢した字だな」
どたん、どーん、ばたん。
庫裡の向うで、角力(すもう)がはじまっているらしい。と思うと別の方角から、一塊りの騒ぎがどんどんこちらへ近づいて来た。何事だろうと、思わず及び腰になったが、三四人でお茶を運んで来てくれたものとわかり胸をなでおろした。
「まったく、〝請願寺″そのままやがな」
「山また山、そのまた山の、もう一つ向うに山また山。
そんな山奥の谷間の小さな村に、請願寺という古びたお寺がありました。
住職は良海という、風変りなお坊さんで、お坊さんには男の子ばかりの五人の子供があり ました。五人の子供は、そろいもそろってやんちゃで、あばれん坊で…」
「請願寺の子供達」のはじめに、いつも福士夏江アナがこういう解説を読む。
去年の八月から一週間置きに放送されているが、いつだったか、僕が聞いたうちに、次のようなのがあった。
…朝。雨の音。請願寺の子供達は、雨の朝はとくに早起だ。どたん、ばたん。
「もう、超きてけんかをしとるのか。どら、わしが調停に乗出さぬとおさまるまいて」
と、主人公良海さんのぼやき。
が、子供達の早起には、理由がある。
請願寺には、やぶれ傘が二本、雨ぐつはゴム長にボロの兵隊ぐつが一足ずつしかないのだ。 「おう、おう、けんかはもうやめだ、やめだ。ふたりで一本ずつさして行けばよかろうが…」
「それじゃ、一人ハミ出ちゃうんだよ、お父さん」
「なるほど。じゃ、こうしよう。ハミ出た一人はお父さんのタクハツ用のアミ笠をかぶって 行ったらどうじゃ。な、一海、お前が一ばん年上だからタクハツで行きなよ」
場面が変って、
おすみさん(良海の奥さん)が泣いている。
「いつまでも貧乏で…、あれじゃ子供達があんまり可哀そうよ」
良海さん、なだめるのにオロオロしつつも、腰をのばしてげんといい渡す。 「おやすみよ。ものは考えようじゃ。みんな学校にやれるということだけでこの上もない幸せじゃないか。
さあ、涙をふけ、貧乏がなんだよ。顔をあげな。さニコニコ顔になりなされ。ええか、わしが笑うからお前も笑うんだよ。そうら、いち、に、さん・・・・・・うわはっはっはっ」
良海さんの泣笑いの声が遠のいて行く。
「請願寺の子供達」には、花岡さんの静かな信仰と、ヒューマニズム、生きる者へのいとおしさにあふれた豊かなユーモア、そうしたものが脈々と息づいている。
「生きていること、それ自体が布教になっている、そんなのが本当の僧侶だろうな」
「花岡さんが文学することがすなわち立派な布教だね」
とA氏。
「やあ、どうも」
ふりかえると、その花岡さんが小腰をかがめながら、頭をふきふき入って来た。背中に、小さいのが二三人、もつれ合っている
「やあ、どうも」
と、もう一度花岡さん。口下手なこの人の、いろんなあいさつを一言の中に一緒くたにした発声である。ほウ、と息をつくような、相手の心を柔かい気体で包んでしまうような発音であった。
「あそこに山が見えるでしょう? あれは山のように見えて実は果てもなく拡がった高原な んですよ。戦時中は、隠し飛行場があったほどなんです。さア、あそこへ行って大いに語りましょうか」
「おっと承知」とA氏、引請けたときは気前がよかったが、いざ山肌にとりついてみると大変。山みち三十分ばかりのあいだ、ふうふういいながら、
「わア、さっききみと約束した大峰登山の件、もう止したよ。この坂、とても登れん。大峰なんぞ、聞いただけでもぶるぶる…」
来夏、この南の方にそびえる大峰山に三人で登ろうという提案が、ほんの先刻、当のA氏から出たのであったが。
「やっぱり、自力というものは性に合わんでしょう」
花岡さん、冗談いってる顔付でもなく、ぼそぼそ。
「時季になりますとね、全山、梨の花で真白になるんです。梨で食ってる村だから収穫期には村じゅう山へ移動するんですよ。ここらで梨でももぎながら話しましょう」
佐名伝の里が足下にある。公民館の屋根が緑の中にポッチリ、赤を点じていた。
「あの公民館は、むかし、父が建てたのです」
花岡さんの言業数は多くはなかったが、話はあらまし、次のようである。
先住大雄翁は苦学して啓学館(東洋大学)を卒業した。その苦学ぶりは惨憺たるものであったらしい。牛乳配達をしていたときあまりの空腹に車が曳けず、やむなく牛乳を失敬して呑み、辛じて飢をしのいだことも、しばしばであったという。
卒業後軍隊に入り、曹長まで進んで除隊した。村に帰って来た。故郷の山河は変らず美しかったが、人と村は昔のおもかげもなく変り果てていた。
村は、青い田園の波に取巻かれていながら、一枚の田も村人の持物ではなかったのだ。四十戸ばかりのこの村のどの家の米櫃を開けても、満足に米粒は入ってなかった。
理由はすぐわかった。
ばくちである。いつの頃からか、この風習が入りはじめて、人々は鍬を捨て、田を売って、 夢中になった。田地はみな、他村の地主のものとなった。ばくちのモトがなくなると小作し、 幾ばくか稼いではまたすった。土地を捨てて流亡する者も多くなり、村は廃墟同然に荒れた。
青年僧大雄は奮起した。
村じゅう、駆けずりまわって、青年を説いた。彼がまず手を着けたのは青年塾の開設であった。塾は毎夜、寺で開かれた。
「この村を救う者は君らしかない。まず、君らの人間をこしらえることが、君らの仕事の第一番だ」
塾は、勤行にはじまり、勤行で閉じた。その間、経書のほか、政治経済、歴史のことなども講じた。寺に来る青年は月毎にふえて来た。
「君も私も、みな如来さまに生かされている。その、生かされている者同士が、お互いのために、おのれを犠牲にして働きあうことが如来さまへの報恩の一つだ」
という原理を会則にして、これらの集いを「為人会」という名前のもとに組織した。
この会は、単に求道修養の集いであるばかりではない。実に、強力な経済活動の組織体でもあったのだ。まず、青年の無報酬奉仕によって産業組合活動がはじまった。今の農業協同組合とほぼ同じ性格だが、賀川豊彦が提唱したよりもはるかに前、明治末年に誕生したというだけでも、青年僧大雄の先覚者的意義は高く買われてよい。大雄は、みずから組合長とな り、販路の開拓から出荷の世話、売上金の計算にいたるまで、身を粉にして働いた。むろん、 同志の青年達と同様無報酬である。
為人会を中心とする教化活動も年と共に活発になった。二十歳から四十歳までの村人はす べてこの会員となり、三十までを乙部、三十以上を甲部として、本堂で二列にならべ、開法をすると共に、生活立直しの具体的指示を与え、その実行をきびしく促した。
やがて、村は立直った。田畑はすべて村に戻った。さらに果樹栽培を奨励して、近郷でも有数の富裕村となった。
六十五歳、病を得て往生の素志を遂げた。命日十二月十三日には、村人は公私一さいの行事をやめ、この日を大雄忌と名づけて故人を偲ぶ集いを持つことが村の重要な年中行事とな っている。
帰途、「請願寺」を辞そうとすると、待ち構えたように雨になった。
駅までコウモリを一本ずつ拝借した。花岡さんと高校生の「二海」君が送って下さったが、 二人が一本のカラカサの中に入った。半スボミになったカラカサからにゅッと四本のズボンが出ている。そのズボンが忽ち雨で濡れはじめた。とたんにまた「請願寺の子供達」を思い出した。
駅までの山道が、そのまま川になっていた。悪戦苦闘十数分、やっと山の中腹の駅までたどりついたとたん、あれほどの豪雨がカラリと上り、月さえ出た。
「やれやれ、何ぞに化かされたかな」
と口を尖らすボヤキストA氏をなだめるように、
「いや、この辺の山には狐や狸がまだいましてね」
と花岡さん、おかしさをこらえて、大真面目な表情。
遠く、闇の中に佐名伝の灯が見える。かすかに闇を流れてくる梨の甘いにおい。
佐名伝に灯をともした人、この梨を広めた人、その人はすでに亡いが、その人の子は、世のすべての児童の心に灯をともそうと、いまここにがっちりと立っている。そしてその後ろには元気一ぱいに育っている七人の男の子たちがいる・・・・・・。
何か、人間が地上に残して行く仕事というものについて考えさせられる晩だった。
(昭和28年10月)
