おいの池の伝承
佐名伝には、「おいの池」と呼ばれる伝承があります。昔、佐名伝の娘「おいの」が、興福寺の僧に恋をし、失恋の末に吉野川の池に身を投げたという悲恋の物語です。この池は、興福寺の猿沢池と地下でつながっているという伝説もあり、地域のロマンを感じさせます。
物語のあらすじ
昔、佐名伝村に「おいの」という心優しい娘が住んでいました。ある日、彼女はお地蔵さんにお供えをしに行った帰り道、倒れている旅の僧を見つけます。おいのはその僧を家に連れ帰り、父とともに看病しました。
僧はやがて元気を取り戻し、奈良の興福寺へと戻っていきます。おいのはその僧に恋をしてしまい、思いを抑えきれず奈良まで追いかけて告白しますが、僧は「修行中の身」としてその想いを断ります。
失意のうちに村へ戻ったおいのは、佐名伝の池に身を投げて命を絶ちました。
笠が語る奇跡
数日後、奈良の猿沢池に、おいのがかぶっていた笠が浮かんでいるのが発見されます。これを見た僧は驚き、やがて彼の姿も寺から消えてしまいます。
人々はこう語り継ぎました:
「おいの池と猿沢池は、地下でつながっている。おいのの想いが笠に乗り移り、水底を通って奈良まで届いたのだ」と。
この物語は、佐名伝出身の郷土史家・花岡大学氏がこの物語を広めたことでも世に知られ、かつてテレビ番組『まんが日本昔ばなし』でも「おいの池ものがたり」として放映されたことがありました。
おいの池の場所と現在
元は、ひょうたん型で、東西57m、南北15m、深さ2.5mほどの岩のくぼみにできた池でした。しかし、2011年の紀ノ川河川改修工事により、池は消失。今は失われた「おいの」を偲ぶ案内板が佐名伝自治会によって設置されています。

花岡大学
「おいの池の話」(佐名伝)
いつのころかははっきりせんが、ずっとずっとむかしのことや。
村の百姓嘉兵衛に、おいのという気立てのやさしい、きれいな娘がおったそうじゃ。早く母親を失ってから、一家の女仕事は一手にひき受け、体の弱い嘉兵衛を助けて田畑の仕事も手伝う、しっかり者でのう、近在近郷から嫁にほしいというてくる者もいっぱいあったそうじゃが、おいのは、まだ早い早いというて、断り続けてきたそうな。
ところが、ある年の暮れの夕方のことじゃ。おいのは父の用事で近くの町までいってきて、とっぷり暮れて帰ってきたのやと。そして、村の入口にまつってある地蔵さんの前まで帰ってくると、そこにうずくまって痛がっているひとりの若い男をみつけた。
近づいてみると、墨染めの衣を着た僧で、急な腹痛で苦しんどった。
そこからおいのの家はそんなに遠くなかったので、おいのはその若い僧を背負うてうちへ帰っていった。それから父の嘉兵衛と一緒に薬をのませてやったり、腹を押さえてやったり、いろいろと手を尽くしてやったそうじゃが、その甲斐あってその夜遅く若い僧の病気は嘘みたいに良うなったんと。
「かたじけのうございます」
と、若い僧は目に涙さえ浮かべながら言うた。
「わたしは南都興福寺で学問をつづけている俊海という者、いささか所要あって吉野山に立ち寄り、ここから高野に出ようとしての道すがらの急病、おかげさまで一命をすくっていただきました。この御恩は生涯決して忘れません。が今は修行の身、いつの日にか必ずおむくいいたします。」
おいのは薄暗い行灯の灯のもとで、初めて若い僧の引き締まった顔を見て、生れてはじめての激しい恋心を持ち、その晩一晩まんじりとも眠れなかったのじゃと。
翌朝早く俊海は、幾度も礼を述べ別れを惜しんで修行の旅に出立してしもうたが、一旦おいのの心についた火は、どうにも消すことができず、いよいよ燃え立つばかりだったそうな。
その日からおいのの様子が、みんながびっくりするほど変わってしまった。明るかった顔が暗く思いにふけり、いつも川のほとりにあるひょうたん池のかたわらに立ってぼんやりとしていたり、さめざめと泣いていたりしたのじゃそうな。嘉兵衛はそれがなによりも心配だったが、どないしようもない。
その年も暮れて、新しい年の正月も終わりに近い雪の降りしきる日、南都興福寺の猿沢池畔の坂道を、深いまんじゅう笠をかむったみすぼらしい若い娘がのぼっていった。二月ばかりのうちに、狂うような恋心にすっかりやせたおいのである。娘心のひとすじに俊海を興福寺に訪ねてきたわけよ。
山坊を訪ねて面会を求めると俊海はおった。命の恩人なので喜んで迎えてくれたが、おいのは、ここでは話もでけんからというて、五重の塔の下の人気のない雪の木陰へきてもらい、そこで燃ゆるような恋心を必死になって打ち明けたのじゃと。びっくりしたのは俊海じゃ。
「なにをおっしゃいます、おいのさん、わたしはご覧の通りの修行僧、御恩は忘れませんが、あなたのお心にはそうわけにはいきません。お許しください。」と言って、すがりつくおいのの手をふりほどいて寺門深く駆けこんでしもうたそうな。
死をかけてのおいのの願いが、そんなふうにつめたくはね返されたので、あいかわらず降る雪の中をよろめくようにおいのは村までかえってきたが、それから二日後の朝、一通の遺書をのこして、ひょうたん池の青黒い水の底に沈んでいるおいのの姿がみつけだされたんじゃと。遺書には俊海に対するひとすじの恋に命を絶つということと、先立つ不孝を心から詫びてあったそうじゃ。
ところが、そんなことがあってから数日後、南都の興福寺にいた俊海が、なんの気なしに猿沢池のとこへおりてきて、ふと見ると池の面にこの間見たおいののまんじゅう笠が浮んでいるので、はっと驚いたという。そらびっくりするわ。笠を引き寄せてみると笠の裏に「おいの」と書いてあるから間違いはない。一体どうしてここにこんな笠が浮いていたのだろうかと俊海が不審に思っているとき後からその肩をたたく者がおった。一人娘の切なる恋を娘にかわってせめて一言だけ俊海に伝えてやりたいという親心からはるばるやってきた嘉兵衛だった。
俊海はその顔を見ると、
「あっ、嘉兵衛さん、おいのさんは」と聞いた。
「はい、あなたを慕って、このあいだ村の池に身を投げて死にました。」
「えっ、それでは、この笠は?」
その笠を見るなり嘉兵衛もびっくりして「あ、これは、たしかにおいのの笠、どうしてここへ」と不思議そうに聞いた。
昔から村のひょうたん池と奈良の猿沢池とは底の方でつづいている。そのためにひょうたん池の堤に立って強く足をふむと下が穴洞になっているのがつづみを打ち鳴らすような音がしたので村の人たちはそれを「つづみが芝」と呼んでいた。言い伝えの通りこれは地下をうねうねと空洞が通って二つの池をつないでいるものに違いがない。身投げの折ひょうたん池に投げ込まれた笠が恋しい俊海への情をこめて地下を延々とくぐって猿沢池までたどりついたものに違いないと俊海も嘉兵衛も思ったそうな。ひとすじの娘の恋心のいじらしさにそのまんじゅう笠の話を聞いた村の人たちはいずれも涙を流して同情し、それから後その池を「おいの池」と呼ぶようになったというこっちゃ。
その池は高い岸の上にあって下の吉野川の水面とかなり落差があるにもかかわらず四季いつでも水が干あがったためしもなく増えもせず減りもせずに水位を保っているがその池が猿沢池とつづいているちゅことはその水位がおんなしやからだということができるわけじゃわな。不思議な池だ。
なお俊海はその後どうなったのかというとその日から興福寺から煙のように消え去ってしもうてんと。
どこへいったのか生きているのか死んでしまったのかだれも知らないというこっちゃ。今だにわからん。
それで村の人たちは、決して口には出さなかったけれど俊海もまたおいのを見たときからおいのの姿が心に刻みこまれていて、そのために姿を消してきっとどこかで、おいのの後を追って死んでしまっているに違いないといいあっておったが、もちろんほんとうのことは、なんにもわからん。
あとがき
おのおのの大字の、かなり御年配のこれという人に、おのおの大字に伝承されている「伝説と昔話」の蒐集をお願いしたところ、そのほとんどの人から、それらしいものはなにもないというお返事をいただき、いささかあわてた。それであらためて、その方面に特別に興味を持っておられる若い方にお願いして資料を集めてもらい、そこへ、たとえば『大和の伝説』などにすでに記載されているものなどを加え、もっぱら紙面の都合を考慮して、伝説はこれを二〇の大字に配列、昔話はおもしろそうなものを四つ取りました。したがって、伝説などにはかなり省略したものもありますが、いずれも地名の起こりといったたぐいの片々たるものであり、もともとこれなどは大字別に配列すべき性質のものでないことは明らかです。
それからその当のおいの池は、現在なお、大淀町佐名伝の川岸に残っていますが、数度の大洪水に見舞われたりして、それ自身は見る影もない姿になってしまっています。悲しい恋にまつわるこうした昔話を秘めているだけに、伝承されているストーリーには多少の異動はありますが、いずれも村の人たちにとっては、なにかせつないほどに大切な感じであるだけに、そういう池などの保存については、村をあげての関心を結集したいものです。
うまくそういったものがまとまったというわけです。いうまでもなく「伝説や昔話」といったものは、その地域の環境なり文化なりを反映しながら、庶民たちの生活の一部として存在してきたわけですが、まとめてみて率直な感じは、本町など古い歴史に恵まれた土地であるにもかかわらず、そうしたものの伝承がどうしてこんなにも貧困なのかということです。もっとあっていいと思われるものが、事実ないという驚きと、あっても内容的に他の地域にあるものと同類型のものが多く、この土地に密着した独自なものが少なすぎるというさびしさです。はじめからなかったのではなくて、土地柄からいってあったことに間違いはないと考えられますが、それが特に御年配のこれという人におたずねしても、なにもないとおっしゃるということは、すでにそういうものがこの土地から、あとかたもなく消滅してしまっていることを物語っているのでしょう。それはたしかに、放っておけばそのまま消滅していく性格のものではありますが、だからといってそれをその性格のままに消滅させてしまったとすれば、それは郷土愛の基盤となるそういうものの貴重さを認識しない土地の人たちの怠慢といわなければなりません。それは消滅させてはならないものであり、そのためにも今度のこういう蒐集の仕事は大きな意義をもっているものといっていいとともに、誇るべき土地柄を思うと、決してあとかたもなく消滅してしまっているものではなく、かならずどこかにまだまだ埋没されているにちがいないと思われるわけで、こうした機会をしおにあらたな認識をもっていただいて、その発掘の仕事にこぞっての協力を望まずにはいられません。
佐名伝に伝わる昔話・筆捨岩
刻々と変化する奇岩
奈良県の吉野川の清流に浮かぶ「筆捨岩」は、かつてその奇岩の美しさで人々を魅了していました。そびえ立つ岩は、まるで巨大な島のように川面に浮かび、周囲の自然と調和しながら、悠久の時を刻んでいます。しかし、長い年月の間に、自然の力によってその姿は少しずつ変わり続けてきました。特に、大雨のたびに岩が崩れ、流され、その形状が変わる様は、まるで自然がこの岩に新たな命を吹き込んでいるかのようです。昔ほどの壮観さは失われたものの、今もなお地域の人々に愛され、語り継がれています。
この岩には、不思議な伝説が息づいています。平安時代の宮廷画家、巨勢金岡が佐名伝の地を訪れた際、その景色の美しさに心を奪われ、絵に描き留めようと滞在しました。彼は、岩の神秘的な姿を捉えようと何度も写生を試みましたが、岩は日ごとにその形を変え、彼の努力を無に帰しました。描くたびに修正を余儀なくされ、ついには筆を捨てて村を去ることになったのです。この出来事から、「筆捨岩」という名が生まれたと伝えられています。
岩が日々その姿を変えるほど、かつての景観はどれほど見事だったのでしょうか。巨勢金岡の苦悩と挫折は、自然の流動的な美しさを物語っています。彼の心に刻まれたその景色は、今もなお「筆捨岩」に宿り、訪れる人々を魅了し続けています。
この神秘的な場所は、歴史と自然が交差する舞台であり、訪れる者に深い感動を与えます。清流のせせらぎと共に、岩の姿を見つめると、まるで時を超えた対話が始まるかのようです。自然の力が生み出す美しさと、その背後に秘められた人間の物語が交錯する「筆捨岩」は、今もなお、心に残る神秘的な場所として、多くの人々を惹きつけています。
※巨勢金岡:平安時代前期の宮廷画家。日本画の大祖とも称され巨勢派の開祖としても知られる。


